回転寿司店において、回っている商品や、使用前の湯飲みへ自分の唾液を付ける行為を撮影して、発信していると報道がありました。非常識を痛感するとともに、性善説に限界があると感じました。本日は、性善説の限界について、考えてみます。
回転寿司に限らず、多くの消費者ビジネスは、消費者は、商品の価値や品質を落とす行為は行わない前提であり、全て性善説に立っています。コンビニで、レジで精算するまでは、当該食品は食べません。ユニクロでは、商品にペンキや墨汁などを塗ったり、唾を付ける行為は、行われない前提です。
仮に、今回行われた行為が、消費者が行うかも知れない前提であれば、回転寿司のビジネスモデルは崩壊します。外食産業の多くは、崩壊すると言っても過言でありません。
このように、我々の世の中には、人間を性善説を前提にしているビジネスが多いことから、消費者ビジネスに参加しようとするならば、性善説を汚さないだけの常識レベルとコンプライアンス感覚が必要となります。
昭和や平成の時代なら、たとえ成人であっても、人間として非礼・非常識な行為は、親のしつけが悪いと保護者が非難されましたが、令和の個の時代には、それも叶いません。ただ、社会で共存・共感していく人間であれば、民事や刑事で裁く以上に、世間に出る前に受けた教育をやり直さないと、もはや、このレベルは社会が教育できるレベルでないと、考えさせられました。この記事を見て、性善説の常識を崩さない社会にする為に、社会教育の必要性を再認識しました。
最近のサッカーは、フリーキックの時、ゴールを背にして人の壁を作る際、レフリーが白色スプレーで芝に線を描き、その線より後ろに壁を作るように指示しています。昔は、スプレーで指示されるまでもなく、壁の位置が決められていました。これも、性善説の違いなのでしょうか。
当面の間は、常連客しか来ない飲食店で、外食します(笑)



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