亡き父は、東京都大田区、目黒区、杉並区立の小学校教諭を定年まで勤めあげました。遺品整理中に、教え子の皆様に制作していただいた学級同級会誌を拝見しました。本日は、その中で垣間見えてきた若き父の姿について、コメントします。
父は、戦後教育のスターターとして、終戦直後から教壇に立ち、教育が日本の再建の基礎として最重要な課題として考えていたそうです。1947年9月から、大田区の小学校に転任し、実質的な教師活動のスタートになりました。
父は、心から子供たちを愛すれば、教育の方法は自ずと開けてくるという信条を持っていました。加えて、切羽詰まった世の中では、今日の授業が二度とないという心情で、今日精一杯の努力をするという姿勢だったと、同窓会誌に記述がありました。
その頃、父は家庭訪問を精力的に行って両親の意見を聞き、各家庭の実情を知り、出来る限り現実に沿った授業を進めようとし、授業参観を積極的に行って、父兄からの批判を進んで受け入れたそうです。また生徒には「はぐぐみ」と名付けたノートにその日の出来事を書かせて、家庭からのフィードバックを受ける試みをしたそうです。
新しい教育が暗中模索の中、特に社会の科目では、子供達が社会の現場から直接知識を吸収するように、多くの社会科見学を実施しました。製造工場、新聞社、浄水場、夢の島、貨客船、新宿のデパートなどの見学に、生徒を連れて行ったそうです。
ある生徒さんは、先生は知識の吸収は個人に任せ、疑問に思ったことの解決の仕方を教えてくれた。自分で考えて、解決するという意識を植え付けてもらったことが、後々理系に進んだ自分にとって非常に役に立ったと記述していました。
父は、何かをやりたがっている子供たちを刺激して、おや、何だろう!と疑問を持たせ、小集団活動を通じて解決させていくという教育方法を実施していました。教科書の中身を教えるだけでなく、自然環境や社会の仕組みの中から疑問を見つけ、友達と協力して解いていくことの喜びをつかんで欲しかったそうです。
当時のクラスは最大63名の大クラスだったので、幾つかの班に分けて、小集団を形成させ、生徒たちが自主的に集団を組織するように仕向けたそうです。各グループのネーミングもホワイトスター、ハクチョウなど、オリジナルな名称にしました。
当時の生徒さんたちは、父の教育方針を「にんじん方式」と言い、自分たちのクラスをにんじん学級と呼んでいました。もっとも父は、そう呼ばれるのは好きではなかったと記述してありました。
卒業生の皆様が記述された同窓会誌を拝見していると、若かりし日の父の姿が目に浮かびます。遺族として、大変ありがたく感じています。生徒の皆様、同窓会誌を作成いただき、ありがとうございました。
自身を振り返ると、小学校の担任の先生とは、交流がありません。高学年に担任いただいた先生は、若くでオシャレな女性で、茶色のパーマヘアーでした。その髪型から「ウンチョ」というあだ名だったこと位しか、覚えていません。
私は、中学から私立だったこともあり、中学3年間の担任の先生、中高校の軟式テニス部顧問の先生、私の進路に影響を与えた高校の数学の先生とは、今もお付き合いがあります。大学ではゼミの教授が早く亡くなったため、以降はありません。
同窓会誌を読み返しながら、父の姿や人柄を思い出し、自分の人生を振り返る機会があったことは、大変ありがたいことでした。先週に63歳になりましたので、これからは、好きなことに自ら時間を費やす人生にしたいと思います。取り留めのない文章でしたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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